「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
この一言で知られるマリー・アントワネット。しかし実際、彼女がこの言葉を口にした証拠はなく、むしろ後世に作られたイメージが一人歩きしています。フランス王妃として、贅沢と浪費の象徴とされながらも、彼女の人生は誤解と悲劇に満ちていました。本稿では、華やかな宮廷生活の裏に隠されたマリー・アントワネットの真実に迫ります。
1.オーストリアからフランスへ ― 政略結婚の運命
1755年、オーストリア皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの娘としてウィーンに生まれたマリー・アントワネット。14歳でフランスの王太子ルイ=オーギュスト(のちのルイ16世)と結婚し、ヴェルサイユ宮殿へとやって来ます。若き日の彼女は、外交上の駒としてフランスに送られた「異邦人」でした。
当初は無邪気で可憐な王妃として民衆にも愛されたマリー・アントワネットですが、やがてその立場は急速に変化していきます。
2.「浪費家王妃」の汚名と宮廷内の孤立
マリー・アントワネットは、ヴェルサイユの宮廷生活のなかで高価な衣装や宝石、舞踏会などに興じていたとされ、「浪費家王妃」というレッテルを貼られました。とりわけ、庶民の生活が苦しい中での贅沢は、民衆の怒りを買いました。
しかし、王妃の出費は実際には国の財政にさほど影響していなかったことが、近年の研究で明らかになっています。それにもかかわらず、マリー・アントワネットは政治的なスケープゴートにされ、「外国人」「堕落した女性」としてバッシングの対象となっていきました。
3.革命の嵐と王妃の最後
1789年、フランス革命が勃発。宮廷の特権的な生活は激しい批判を受け、王政そのものが否定される時代が到来しました。王家は民衆によってパリに連行され、事実上の軟禁状態に置かれます。マリー・アントワネットは、国王一家の国外逃亡計画(ヴァレンヌ逃亡事件)にも関与したとして信頼を失い、1793年に革命裁判によって死刑判決を受けます。
彼女は10月16日、わずか37歳でギロチンによって処刑されました。最後の言葉は、処刑人の足を踏んでしまったことを詫びる「ごめんなさい、わざとではなかったのです」だったと言われています。その姿は、もはや贅沢な王妃ではなく、一人の母であり、一人の女性でした。
4.再評価される「人間」マリー・アントワネット
近年では、マリー・アントワネットの人物像は再評価されています。実は慈善活動にも熱心で、母親として子どもを深く愛し、政治的にも王妃としての役割を果たそうとしていたことが明らかになってきました。決して軽薄な人物ではなく、時代と国の狭間で苦しんだ一人の女性だったのです。
ヴェルサイユ宮殿の「プチ・トリアノン」で、形式ばった宮廷生活を離れ、田舎風のシンプルな生活を夢見た王妃の姿は、ある意味で自由を求めた「近代女性」の先駆けとも言えるかもしれません。
最後に
マリー・アントワネットの人生は、「贅沢の象徴」から「時代の犠牲者」へと視点を変えることで、その深みが見えてきます。彼女はただの王妃ではなく、激動の時代を生きた一人の女性でした。彼女の生涯を通して、私たちは「見られた姿」と「実際の人間性」とのギャップについて考えることができるのです。